【三原城】

皆様、こんにちは。
広島支店の吉田です。
最近では、またインフルエンザが流行していますが、体調にはお気をつけ下さいませ。

.

昨日私は、週末を利用して実家へ帰省しました。やはり、実家は落ち着いてのんびりしてしまいます。犬を2匹飼っているのですが、2匹とも玄関までお出迎えをしてくれて、疲れもどっかにいってしまうくらい癒されました。また、両親も祖母も変わりなく元気でしたので、とても安心しました。

帰省はしたものの、のんびりしていて何もしていないので、ここで地元にあるお城を紹介したいと思います。

.

それは、三原市にある三原城です。
三原城は、戦国時代の武将、小早川隆景の築城した城で、江戸時代に、広島福島氏の支城となり、その後、広島浅野氏の家老の住む支城になりました。(家禄は3万石だったそうです)
沼田川河口の三原浦に浮ぶ大島、小島を利用して築かれ、島を削平して平坦面を設け、削平した土で周辺を埋め立てて城地を確保したといわれます。台形の形の本丸、二の丸を中心として東側に三角形の三の丸、そのさらに東側には長方形の東築出があり、一方本丸の西側は方形の西築出が配置されていました。また、城地の南側は海に接しており、どの曲輪も海水を取り込んだ水掘で区切られていました。全国的にも数少ない海城といえます。

.

ですが、残念なことに現在では市街地化が進んでいるため、三原城の遺構はわずかに本丸天守台の石垣と堀、それと臨海一番櫓・本丸中門付近の石垣と堀、および二の丸舟入周辺の石垣と堀が残るのみとなっています。しかもこれら残った遺構にしても市街地とJRの路線で分断されているため、かつて瀬戸内海に浮かんでいた頃の城の姿を想像することは完全に不可能となっています。

江戸時代が終わるまでは、三原城はその姿をとどめ、城下町を形成していましたが、明治のころ、日清戦争勃発のため、下関までの鉄道敷設が重要課題となりました。その鉄道を施設するため、ルート上に存在する三原城は破壊されました。決定的な破壊は1975年の山陽新幹線の開通による三原駅の設置でした。

そのため、現在は天主台と舟入櫓が現存するほか、建築物が各所に移築されたり、石垣が再利用されたものが三原市中心部に点在しているような状況です。

.

是非、三原市に立ち寄った際には1度行かれてみてはいかがでしょうか。

.